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-江戸時代-

公開日 2014年12月01日 00時00分

-江戸時代-

農地開発と増える村むら -江戸時代(1)

江戸時代はじめのふじみ野市には、大井郷(後の大井町・大井宿)、亀久保村、苗間村、福岡村、駒林村、川崎村の6か村があり、一部が幕府旗本(ばくふはたもと)の領地になったほかは川越藩の領地となっていました。

寛永16(1639)年に松平信綱が川越藩主となってからは、原野だった武蔵野の開発が積極的に進められ、この開発によって慶安年間(1648~52)に福岡新田が、延宝期(1673~80)頃に鶴ヶ岡村が成立したと伝わります。

元禄年間(1688~1704)には旗本領だった村もすべて川越藩領となりましたが、後に福岡村の一部の地域が幕府領になりました。

正徳2(1712)年に、この地域が再び川越藩領に編入され、明和4(1767)年に中福岡村と改名しました。

これでふじみ野市は、9か村からなりたっていたことになります。

これらの村むらには、村の責任者の名主(なぬし)のほかに、組頭・百姓代などの村役人が置かれました。

武蔵野図10_1[1]

武蔵野図
(亀久保村から西、富士山の方角に武蔵野の原野が広がっていました。国立公文書館所蔵)

新河岸川舟運(しんがしがわしゅううん)と福岡河岸(ふくおかがし) -江戸時代(2)-

荒川支流の新河岸川を航路とする舟運は、江戸初期の寛永15(1638)年に江戸から川越東照宮の再建資材を運搬したことに始まります。

正保4(1647)年、川越藩主の松平信綱が新河岸川の河道整備を図り、市域を含む川越周辺と江戸を結ぶ水路として、重要な役割を果たしました。

川の沿岸には、20か所以上の河岸(船着場)が設けられ、ふじみ野市には、江戸時代中期設立の福岡河岸と明治時代初期設立の百目木(どうめき)河岸がありました。

大井・所沢・飯能などで生産・出荷されるサツマなどの農産物や薪(まき)・炭が、これらの河岸場に運ばれ、川船に積み込まれて江戸(東京)に送られました。

福岡河岸から浅草花川戸までは約120キロほどでした。福岡河岸は、享保18年(1733)ごろに設けられ、安永2年(1773)には江戸幕府から正式に公認されました。

当初の船問屋は吉野屋、江戸屋、冨田門左衛門の3軒でしたが、後に冨田家は船問屋をやめました。

江戸時代後期の天保2年(1831)に福田屋が船問屋を開業しました。

河岸場に出入りしていた船頭(せんどう)は、全長15メートル前後の荷船に200~250俵を積むことができる木造の川船を所有していました。

これらの船頭の多くは、別名「船頭のムラ」とも呼ばれていた下福岡に住んでいました。

江戸時代末から明治時代中ごろにかけて、舟運は最盛期を迎えますが、明治時代の終わりごろに福田屋と江戸屋は船問屋を廃業します。

吉野屋も、大正時代の東上線の開通や河川改修工事により新河岸川が水運路としての役割を終えたことにより廃業しました。

船頭たちは船を売却し、昭和10年頃には川を往復する船の姿は消えてしまいました。

福田屋10_2[1]

旧船問屋福田屋の主屋(明治6年の建築と伝えられます。)

大正養老橋10_3[1]

大正時代の福岡河岸(左が福岡河岸と荷船、中央が養老橋です。)

川越街道と大井宿 -江戸時代(3)-

江戸幕府は、公用の旅行者に対し、荷物などを宿場から次の宿場へと人馬をかえて送り届ける宿継ぎを行うという伝馬(でんま)制度を設け、陸上の運輸・通信を統制する連絡網として東海道・中山道をはじめとする五街道を整備しました。

宿場には公用旅行者のための本陣(ほんじん)や一般旅行者のための宿泊施設である旅籠(はたご)が置かれました。

川越街道(現在の国道254号線)は、中山道の脇道として寛永年間の末(17世紀中頃)に整備され、江戸から出発して板橋宿で分かれ上板橋、下練馬、白子(現在の和光市)、膝折(現在の朝霞市)、大和田(現在の新座市)、大井(現在のふじみ野市)の6宿をへて川越にいたる約11里(約45キロメートル)の道のりでした。

大井宿の本陣は、戦国時代に大井郷の開発に尽力した有力農民大井四人衆の系譜をひく新井家がつとめていました。

大井宿10_4[1]
大井宿復元模型

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