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歴史資料

公開日 2014年12月01日 00時00分

旭黌(あさひこう)の額【歴史資料】

大井小学校の前身にあたる旭学校(「旭黌」)校舎正面入口に掲げられた明治19(1886)年の額で、埼玉県政において要職を歴任した笹田黙介の筆によるものです。明治5年の学制発布により設置された大井・亀久保・苗間の各小学校が、明治12年の教育令により合併し、旭学校(大井町苗間村亀久保村連合公立旭学校)が設立されました。旭学校の名は、校名について議論しているうちに夜明けになったことに由来するそうです。
(所在地=大井郷土資料館)

旭黌(あさひこう)の額【歴史資料】

鬼瓦【歴史資料】

明治12年に設立された旭学校の校舎は、払い下げられた川越城内の米蔵を利用しました。この校舎は昭和30年代に取り壊されましたが、川越城の建物であったことを示す三つ葉葵(あおい)の紋が入った鬼瓦が残されており、往時の校舎のおもむきをしのぶことができます。
(所在地=大井郷土資料館)

鬼瓦【歴史資料】

三福学校(さんぷくがっこう)印【歴史資料】

明治11(1878)年に、福岡村・中福岡村・福岡新田が合同して設置した三福学校で使用された印鑑2点です。一つは3.6センチメートル四方の木製の「三福学校」(写真)他の一つは、三福学校の別名を表す「第一第学区第十四番中学区第百五拾八番小学」の印鑑です。
(所在地=上福岡歴史民俗資料館)

三福学校(さんぷくがっこう)印【歴史資料】

福岡村戸長(こちょう)役場資料【歴史資料】
 

 旧戸長役場で使用された看板1点と印鑑2点で、明治前期の行政の歴史を知るうえで、貴重な資料です。看板は、縦90センチメートル、横24センチメートル、厚さ3センチメートルの板に「福岡村戸長役場」と墨書されています。「福岡村戸長役場」の公印は、縦2.7センチメートル、横1.3センチメートル、「入間郡第八学区事務所」の公印は縦2.8センチメートル、横1.3センチメートルです。回漕問屋福田屋の8代目星野仙蔵が、明治15(1882)年から明治22年まで福岡村戸長をつとめていたことから福田屋に残されていました。
(所在地=上福岡歴史民俗資料館)

福岡村戸長(こちょう)役場資料【歴史資料】

十三仏掛軸(じゅうさんぶつかけじく)【歴史資料】

鎌倉時代に亀久保周辺を支配したと伝わる二階堂氏の末裔(まつえい)の六郷兵庫頭政恒(ろくごうひょうごのかみまさつね)が、江戸時代後期に、先祖ゆかりの地蔵院に寄進した、非常にていねいに描かれた2幅(ふく)の絹本(けんぽん)の掛軸です。六郷氏は関ヶ原の合戦の功績により、常陸府中(現在の茨城県石岡市)に領地を得、大坂夏の陣での戦功により本荘(現在の秋田県)に移って本荘藩になりました。六郷政恒は本荘藩9代目の藩主です。
(所在地=大井郷土資料館)

十三仏掛軸(じゅうさんぶつかけじく)【歴史資料】

元禄7年奉納の鰐口(わにぐち)【歴史資料】

江戸時代の川崎村にあった稲荷大明神に、川崎村の地頭(じとう)[領主]の旗本榊原藤右衛門が元禄7(1694)年に奉納した銅製の鰐口です。鰐口は、仏前・神前に懸(か)ける仏具の一種で、サイズは直径11センチメートル、厚さ3.5センチメートルになります。旗本と村との関係を物語る資料です。
(所在地=上福岡歴史民俗資料館)

元禄7年奉納の鰐口(わにぐち)【歴史資料】

阿弥陀如来立像(あみだにょらいぞう)及び脇侍(わきじ)【歴史資料】

鎌倉時代に流行した善光寺式(ぜんこうじしき)と呼ばれる阿弥陀三尊(あみださんぞん)の銅像です。台座の墨書により、江戸時代中期の元禄12(1699)年に亀久保の地蔵院から苗間の浄禅寺(じょうぜんじ)[現在は廃寺]に移されたことがわかります。全身に鍍金(ときん)を施した江戸時代初期のみごとな仏像です。大きさは、阿弥陀如来立像が高さ50センチメートル、脇侍がともに38.7センチメートルです。
(所在地=大井郷土資料館)

阿弥陀如来立像(あみだにょらいりつぞう)及び脇侍(わきじ)【歴史資料】
 


 

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TEL:049-220-2088

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