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考古資料

公開日 2014年12月01日 00時00分

亀居遺跡出土深鉢形土器(かめいいせきしゅつどふかばちがたどき)【考古資料】

亀久保・鶴ヶ岡周辺の亀居(かめい)遺跡は、縄文時代中期前半の重要な遺跡で、この時代の特徴をあらわした3点の土器を文化財に指定しました。これらは阿玉台式(あたまだいしき)と呼ばれる東関東系の土器で、キラキラ光る雲母(うんも)の粉末を土器に混ぜ、胴部(どうぶ)に指頭の圧痕(あっこん)が見られることが大きな特徴です。写真右の土器は現存最大径27センチメートル、現存部の高さ28センチメートル(胴体下部は欠損)、中央のものは口径39.5センチメートル、高さ47センチメートル、左のものは口径28センチメートル、現存部の高さ24センチメートル(底部は欠損)です。
(所在地=大井郷土資料館)

亀居遺跡出土深鉢形土器(かめいいせきしゅつどふかばちがたどき)1【考古資料】 亀居遺跡出土深鉢形土器(かめいいせきしゅつどふかばちがたどき)2【考古資料】 亀居遺跡出土深鉢形土器(かめいいせきしゅつどふかばちがたどき)3【考古資料】

はそう形須恵器(すえき)【考古資料】

5世紀後半につくられた権現山北古墳群(ごんげんやまきたこふんぐん)から埴輪(はにわ)の破片とともに出土した土器です。高さ18.3センチメートル、口径15センチメートル、胴部径18.1センチメートルです。近畿地方から当地にもたらされた優品で、ほぼ完形を保っています。胴部には、はそうの特徴である小孔(1.4センチメートル)が開けられており、そこに竹筒などを差し込んで酒の回し飲みに使用されたと考えられます。
(所在地=上福岡歴史民俗資料館)

はそう形須恵器(すえき)【考古資料】

注口土器(ちゅうこうどき)【考古資料】

権現山遺跡の竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)から発見された土器で、縄文時代中期後半の加曽利(かそり)EIII式(約4千年前)に属しています。高さ19センチメートル、口径7.5センチメートル、胴部径12センチメートルです。ほぼ完形を保っている上に、近隣でも見ることができない希な形をしています。用途は、酒や果汁などの液体を入れて注ぐなど、主に祭祀(さいし)に用いられた特殊な容器と思われます。
(所在地=上福岡歴史民俗資料館)

注口土器(ちゅうこうどき)【考古資料】

阿弥陀一尊図像板碑(あみだいっそんずぞういたび)【考古資料】

板碑は、鎌倉中期から戦国時代初期にかけて、阿弥陀仏などを信仰し、死後の極楽往生(ごくらくおうじょう)や死者の冥福(めいふく)を祈願して、最初は武士などの有力者、後には庶民によりつくられました。青緑色の石材[緑泥片岩(りょくでいへんがん)]の板によりつくられていることから「青石塔婆(あおいしとうば)」、「板石塔婆(いたいしとうば)」などとも呼ばれます。板碑の多くは、信仰の対象になる仏を表す梵字(ぼんじ)が刻まれていますが、この板碑は阿弥陀如来の図像が彫刻されています。蓮座の上に優美な阿弥陀如来の立像が描かれ、頭部を取り巻くように蓮と輪光が彫られています。年月日が記されている部分がはがれ落ちているので、作成時期は不明ですが、形態から鎌倉時代末期から南北朝時代(14世紀中ごろ)のものと思われます。高さは128センチメートル、幅41センチメートル、厚さ4センチメートルです。
(所在地=阿弥陀堂:川崎2丁目)

阿弥陀一尊図像板碑(あみだいっそんずぞういたび)【考古資料】

板碑の拓本
 

市内最古の板碑【考古資料】

鎌倉時代中期の正元元(1259)年につくられた市内最古の板碑で、阿弥陀如来を表す梵字が大きく彫られています。この板碑は、新河岸川改修のときに滝付近の川底で発見されました。下部は失われているものの、高さは128センチメートルに及び、幅52センチメートル、厚さ9センチメートルで、市内最大級の板碑でもあります。重厚なつくりは、大型板碑がつくられた13世紀中ごろの特徴をよく表しています。
(所在地=上福岡歴史民俗資料館)

市内最古の板碑【考古資料】

弘安の板碑【考古資料】

徳性寺(とくしょうじ)の山門脇にある弘安4(1281)年の阿弥陀一尊板碑は、高さ117センチメートル、幅31センチメートル、厚さ3センチメートルです。ほぼ完形に近く、大きく立派なもので、鎌倉時代後期の有力者によってつくられたと思われます。この板碑は、大井氏の館跡と思われる場所の一角、東台の「坂上の石塔畑(せきとうばた)」から出土したと言われています。徳性寺境内にある他の大小の板碑もその周辺から出土したと伝えられます。
(所在地=徳性寺:大井)

弘安の板碑【考古資料】

市内最新の板碑【考古資料】

市沢の板碑は、板碑による信仰の最終末期にあたる戦国時代中ごろ、天文23(1554)年につくられました。入間東部地区(ふじみ野市・富士見市・三芳町)では、最も新しい部類に属します。高さ45センチメートル、幅18センチメートル、厚さ2センチメートルで、正元・弘安の板碑に比べるとサイズも薄く小さく、文字の彫りも浅いものになっています。東原小学校東側の「古堂跡」から出土しました。戦国時代の庶民の信仰をうかがうことができる文化財です。
(所在地=大井郷土資料館)

市内最新の板碑【考古資料】

浄禅寺跡遺跡出土(じょうぜんじあといせきしゅつど)の礫石経(れきせききょう)【考古資料】

江戸時代末期に廃寺になった浄禅寺跡の経塚(きょうづか)の地下から出土した経石で、数量は76170点におよびます。経石は、祈願のために石に墨で経文等を書いたもので、浄禅寺跡遺跡のものは、川原の小石に「妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)」の経文や人名・年月日等が書かれています。整理・調査の結果、江戸時代中ごろの元禄9年7月2日から元禄15年7月27日までの6年間をかけて、浄禅寺住職が中心になって経文等が書かれたことが判明しました。祈願の目的は達成されたようで、「成就、皆令満足(じょうじゅ、みなまんぞくせしむ)」という文字も見られます。この礫石経は、入間東部地区では唯一のもので、埼玉県内でも事例は少なく、非常に貴重な文化財です。
(所在地=大井郷土資料館)

浄禅寺跡遺跡出土(じょうぜんじあといせきしゅつど)の礫石経(れきせききょう)【考古資料】

平成6年の発掘調査で礫石経群が出土したときの状況です。


 

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社会教育課 文化財保護係
TEL:049-220-2088

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