明治から昭和へ
合併と新しい村の誕生 明治から昭和へ(1)
明治5(1872)年に名主・組頭は廃止され、ふじみ野市内の9か村には、村ごとに戸籍・税務などを管理する戸長(こちょう)が置かれました。
明治22(1889)年の町村制施行により、江戸時代から続いた村むらも、合併により新たな村に生まれ変わりました。
川崎村・福岡村・中福岡村・福岡新田・駒林村が合併して福岡村が、鶴岡村・亀久保村・大井村・苗間村が合併して大井村が誕生しました。
両村は、後に上福岡市・大井町になりましたが、他の市町村との合併はなく、その範囲は平成17年に合併してふじみ野市が誕生するまで変わりませんでした。
村役場は当初、借用した民家などに置かれていましたが、役場の業務が増えて手狭になり、福岡村では大正7(1918)年に旧三福(さんぷく)学校校舎(木造平屋建)を移転・再利用して庁舎が設置されました。
大井村では、木造モルタル2階建の西洋風建築の役場庁舎が昭和12(1937)年に建てられました。
旭学校と三福学校 明治から昭和へ(2)
近代化を急ぐ明治政府は、教育の振興に力を注ぎ、明治5(1872)年に近代的学校制度の基本法令として学制を発布しました。
ふじみ野市では、三福学校(福岡村・中福岡村・福岡新田)、苗間・大井・亀久保の各学校が設けられました。
明治12年の教育令により、大井町苗間村亀久保村連合公立旭学校(現在の大井小学校)が創立され、明治22年、福岡・中福岡・福岡新田・川崎・駒林の5村の合併により成立した福岡村には尋常(じんじょう)小学校福岡学校(現在の福岡小学校)が設立されました。
これらの学校卒業者の進学先として、明治19年に大井高等小学校が、大正6(1917)年に福岡尋常高等小学校が設置され、地域の人材の育成に貢献して行くことになります。
東上鉄道が開通した 明治から昭和へ(3)
造兵廠(ぞうへいしょう)[火工廠(かこうしょう)]と大井倉庫 明治から昭和へ(4)
昭和12(1937)年から20年の太平洋戦争の終戦まで、現在の福岡1・2丁目から上野台団地一帯には陸軍弾薬工場の造兵廠(通称「火工廠」)がありました。
用地買収は昭和4年から始まり、その後第2・3次買収によって規模が拡大され、最終的には約16万5千坪(約54万5千平方メートル)の規模になりました。
最大700棟の建物のうち、危険物を取り扱う建物の周囲には、爆発しても周囲に影響を与えないよう厚いコンクリートの壁がつくられ、弾薬倉庫の周囲にも高い土塁が築かれていました。
ここでは、約5千人の従業員が機関銃弾、小銃弾から、陶製手榴弾(とうせいしゅりゅうだん)[チビ弾]、風船爆弾の電気雷管(らいかん)・信管の部品などを製造していました。
昭和19年8月から終戦時までは、川越中学校・川越高等女学校などの旧制中学校や福岡国民学校・大井国民学校高等科の生徒1,500人が学徒動員として、危険な作業に従事していました。
造兵廠の付属施設として、大井村亀久保地区に約7,800坪(約2万5千平方メートル)の「大井倉庫」が設けられ、事務棟1棟の他に、21棟の火薬庫・部品庫がありました。
座敷箒(ざしきぼうき)づくり 明治から昭和へ(5)
かつてふじみ野市・富士見市・三芳町から所沢市一帯は座敷箒の産地として有名でした。
古文書には、明治7(1874)年の苗間村物産に「箒穂」、明治9年の福岡河岸の船荷に「箒草」などが現れ、明治期~大正期にかけて上福岡や大井の畑作で作る材料で、「座敷箒」を作り、別名箒草として出荷していました。
明治時代以降、産地が埼玉であっても「東京箒」の名称で全国に売り出されていました。
座敷箒は、長柄箒・手箒・荒神箒に大別され、用途により使い分けられていました。
全国的に住宅事情や生活様式が変化した昭和30年代を境にして箒職人は減少しました。
現在では材料を作る農家の人たちもいなくなり、駒林の永倉一男氏のみが座敷箒づくりの伝統的な技を今に伝えています。
更新日:2020年03月02日